1978年、落語協会内における真打昇進の方針の違いから、六代目圓生は落語協会を飛び出し、落語協会が分裂することになった。その際、弟子である五代目圓楽は師匠六代目三遊亭圓生と共に落語協会を脱会し、「落語三遊協会」を立ち上げる。これにより上野鈴本演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場に出演が出来なくなっため、落語三遊協会は寄席から独立した活動を行うこととなった。落語三遊協会の立ち上げ第一回の興行は上野本牧亭にて行われ(六代目圓生は『豊竹屋』でトリ)、その後落語三遊協会は渋谷パルコや各地の落語会場・寺院などを中心に全国で落語会を開催した。

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ただし、例外として、五代目圓楽はこの間に上野鈴本演芸場の余一会で独演会を行っている(1977年~1980年半ばまで)

ところが、1979年9月3日に六代目圓生が逝去したため、落語三遊協会は解散することになる。五代目圓楽とその弟子は「大日本落語すみれ会」を結成した。この当時は一門の自前の会場が無く、各地で行われる五代目圓楽独演会や各々で落語会を企画し、活動していった。


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その後1985年に「落語円楽党」と改名、東京で弟子を育てる拠点が欲しかった五代目圓楽は江東区東陽に自費でビルを建設し、163席の寄席「若竹」をオープンした。弟子たちが若竹のように育って欲しいと願いを込めたものだった。念願であった一門の定席が出来たのである。当時、噺家が自前で小屋を持つことは異例であった。寄席若竹は昼に定席として寄席を開催し、夜は貸席興行を行った。

昼の興行では落語芸術協会や落語立川流の噺家もゲストとして参加していた。夜の部では当時、三遊亭鳳楽・三遊亭好楽・三遊亭圓橘・三遊亭楽太郎(後の六代目円楽)・三遊亭金也(現:三遊亭楽之介)が月3回の独演会を開催するなど精力的に活動していた。しかし、1989年に寄席若竹を閉場。

一時名称を「落語ベアーズ」としたが1990年に「円楽一門会」へと改名。2009年10月29日、五代目圓楽の死去に伴い、11月21日に「五代目圓楽一門会」と名称を変更した。

五代目圓楽一門会の歴史

現在は、永谷商事株式会社の経営するお江戸両国亭をお借りし、永谷商事株式会社の全面的な後援協力のもと「両国寄席」を月の1~15日開催している。両国寄席は五代目圓楽存命の頃に、六代目円楽が発案したものである。両国寄席では賛助出演として落語協会、落語芸術協会、落語立川流、上方落語協会から噺家や、他団体から色物も協力して頂いている。

さらに、永谷商事株式会社が主催している定席、お江戸上野広小路亭の「しのばず寄席」にも出演している。
また、江東区の亀戸梅屋敷でも平日月・火・木・金(会場の都合により例外あり)を基本に、一門の噺家で亀戸梅屋敷共催のもと「亀戸梅屋敷寄席」を開催している。



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落語協会脱会時は落語協会・落語芸術協会の定席興行へ出演出来ない期間が長く続いたが、近年は落語芸術協会の興行に六代目円楽が客員として一門から参加したことや、2023年2月に一門の幹部である三遊亭好楽が落語協会の浅草演芸ホール昼の部定席興行に出演したこともあり、落語協会脱会当時から現在では落語界を取り巻く環境も変わってきている。

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